ニューヨークで留学生活を始めて2ヵ月が経ちました。
言葉の壁はまだまだ厚いですが、思うようにしゃべれないながらも探検を続けています。今回はニューヨーク市のコミュニティガーデンについてのお話しです。まだ英語力に自信がないので、間違って理解している可能性もあります。その点ご容赦いただけると助かります。
コミュニティーガーデンについて調べていたら、グリーンサム GreenThumbという団体を見つけました。http://greenthumbnyc.org/ ニューヨーク公園局の下部組織で、コミュニティーガーデン活動を応援する公共団体です。
花壇の作り方やガーデン維持のための補助金応募などのワークショップを開催しています。今回はそのイベント活動の中で、ニューヨーク市のコミュニティガーデナーが集まる年に1度の集会があるというのを見つけて参加してきました。
雰囲気をお伝えするために写真を撮ったのですが、今回の報告の内容とは直接関係はありません。会場の空気が少しでもお伝えできたら嬉しいです。
私の住むブロンクスの州立コミュニティカレッジが会場でした。
朝の8時半から夕方4時までのイベントで、受付の後、全体集会を見て、午前と午後に2つのワークショップに参加しました。参加費は事前予約3ドルだけで、朝食、昼食、ロゴ入りのTシャツまでもらえて随分お得なイベントでした。
予定表を見ると"簡単缶詰作り!"や"ハリケーンにも負けないトレリスの作り方"、"ハーブの栽培、その利用"、"コミュニティーガーデンの運用と資金集め"など、面白そうなワークショップばかりです。ですが、時間の関係で午前と午後に1つずつしか参加できないと説明を受けたので悩んだ末に"コミュニティーガーデンの歴史"と"自主作成映画 グリーンストリート"の2つに参加することにしました。缶詰作りに参加したかったのですが、コミュニティーガーデン初心者なので、まずは歴史からだろう!と思い、缶詰は諦めました。
午前中のワークショップ"コミュニティーガーデンの歴史"の講師はコーネル大学の市民向けプログラムで20代から市民と共にガーデン活動をなさって2年前にご定年なさった先生でした。この授業から、予想外のコミュニティーガーデン運動成立の歴史がわかりました。私のこれまでの理解ではコミュニティーガーデンは地域の住民の憩いの場や社会活動の場として成立したと考えていましたが、どうも違うようです。おじいさん先生、ジョンさんによるとニューヨークのコミュニティーガーデンの歴史は第一次大戦まで遡るそうです。
ジョンさんは1時間半の講義の間中、ずっと Crisis "危機"という言葉を強調し続けました。第一次大戦の舞台はヨーロッパだったのでアメリカは戦場にはなりませんでしたが、ヨーロッパの同盟国のために食糧や物資の供給など後方支援をしたそうです。そのために国内の食糧事情が悪化して、食糧"危機"が起こりました。その際に住宅の前庭や公園を耕して食糧を栽培することが奨励されたそうです。これをVictory Gardenと呼び、今のコミュニティーガーデンの大本になった農園でした。当時はホワイトハウスの庭も野菜作りや綿羊の放牧に使われたそうです。日本でも大戦中に学校の校庭や庭園が野菜畑に開墾されたのと重なります。
第一次大戦後、次に訪れた"危機"は大恐慌でした。失業率は上がり、食糧を買うお金もやりくりしなくならなければならなくなって、自分達で食糧を作ることに関心が高まったそうです。これは最近日本でも見られるリーマンショック以降の家庭菜園ブームにも似ているなと思います。
大恐慌による人々の苦しみは第二次世界大戦という形で実を結びました。第二次大戦中、22百万のビクトリーガーデンが作られ、アメリカの全食糧生産の46%を担ったそうです。ニューヨークでは40万のビクトリーガーデンが作られたそうです。
大戦が終了し、アメリカの黄金時代が始まりました。景気が良くなり、市民の収入も増え、農村地帯での大規模耕作も始まり、食糧は自分で作るものではなく、スーパーマーケットで買うものと、人々の意識が変わっていきました。"危機"感がなくなり、Victory Gardenは花の咲く庭園に戻されました。
そして1970年代、新しい危機が訪れます。人種危機、コミュニティ危機です。この時代、ニューヨークの街は瓦礫で溢れ、治安も悪化していたそうです。人種間の所得の差やいろいろな社会問題が背景にあったと思います。人々はお互いに信じられず、ご近所さんとの交流も盛んではなかったそうです。人々の心がすさんでいたようです。心の危機ともいえるでしょうか。
犯罪率の増加や街の美観の悪化が社会問題となり、ニューヨーク市がそれに対応するための活動を始めます。冒頭に紹介したGreenThumbです。コミュニティガーデンを推奨するために予算を組み、専属の職員を雇い入れ、地域の人々に荒れた空き地を美しい庭に作り変える活動を通じて、地域住民の一体感の増進を図りました。グリーンサムが結成された1977年はオイルショックも起こり、食料品の価格が上がり、ガソリンやプラスチック、合成農薬など、石油製品に依存しないオーガニック農業にも関心が高まった時代背景がありました。
無料でコミュニティガーデン(以下Cガーデン)のためのフェンスや土がニューヨーク市から供給されました。宣伝活動も盛んに行われ、人々の関心も高まりました。専属の職員は技術指導役でもあり、広告塔でもありました。この時代、コミュニティーガーデンは一種のトレンドだったようです。ガーデンは朝から夕方まで解放され、誰かしら地域の人が滞在し、通りがかりの人も気軽に立ち寄れるようにオープンな空気が推奨されたそうです。もともと、食糧生産、確保のために作られた地域農園もこの時代に新たな性格が加わったと私には思えました。農作業を通じて、地域の人々がつながり、人種の差を超えて活動を始めたのがこの時代でした。食糧生産に加えて、政治的な性格が加わったのだと思います。
この時代CガーデンはInclusive 包括的だったそうです。が!ニューヨーク市の思惑が一部で成功する一方、決まった地域メンバーがCガーデンを管理するようになり、だんだんとガーデンはexclusive 排他的な場所になっていったそうです。これはいつの時代も、どこの国でも起こりうる問題だと思います。その流れを受け、80年代後半にはCガーデン熱は沈静化し、活動する人数は減り、それに反比例して庭園の木々は生い茂り管理の必要量は増えていったそうです。市民農園冬の時代です。最盛期は1800園あったCガーデンも、この時代に数を減らし、現在残っているのは600園ほどだそうです。つぶされた農園はアパートや病院用地になったそうです。
その冬の時代を超え、1990年代に次のコミュニティガーデンのムーブメントが起こります。この時代の"危機"は健康危機だったそうです。エイズやガン、そのほかの病気に脚光があたり、人々の健康意識が高まりました。それに伴って、有機農業や"オーガニック"という言葉がもてはやされるようになりました。アメリカンコミュニティーガーデンニングアソシエーション アメリカ市民農園協会 http://www.communitygarden.org/about-acga/ が創設されたのもこの時代だそうです。市民農園がオシャレな活動というイメージが加わり、現在まで至るようです。
9.11のテロの際に、マンハッタン島に入るトラックが規制され、スーパーに十分な食料が行きわたらなかったそうです。この体験も地域で食糧を確保する市民農園の重要性を再認識させたそうです。昨年の大震災によるガソリン不足、食糧不足を思い出しました。
私自身の視点と言うより講義のまとめになってしまいましたが、以上がニューヨーク、アメリカでの市民農園活動の流れです。以前からコミュニティガーデンには関心があって、少しずつ調べているのですが、パンフレットやネットの情報でよく見るのはなぜかアフリカ系やラテン系のアメリカ人が多いです。いわゆるcolored有色人種の人達です。我が同胞です。白系アメリカ人がコミュニティ活動している写真はあるにはあるのですが、少数派です。私はここに何か現代のアメリカコミュニティガーデン活動の根底に横たわる問題があるように思います。まだぼんやりとした直観なのですが、間違ってはいないと思います。昨日講義を受けたばかりなので、十分な情報もなく、考察もしていないのですが追々この問題について考えを深めたいと思います。今薄々と思うのは美しい庭園は白系アメリカ人のもの、市民農園は有色アメリカ人のもの、という不文律がありそうです。自分の立場に気をつけつつ、そこに切り込みたいと思います。私も有色な人間なので。
アメリカの市民農園運動にはどうも政治色が感じられます。人々の心の交流という美しい面ばかりではなく、背面には人種間の所得差など、社会の不満のはけ口と言う社会機能がありそうです。が、日本は所得の差こそあれ、人種の差はあまりありませんから、この社会面は取り入れずに、地域住民の憩いの場、交流の場としての市民農園の運営を学んでよいところだけをとりいれたらいいと思います。その点、ニューヨークの市民農園活動には学ぶところがたくさんあります。
長くなりましたが、まだまだ午前中のワークショップが終わったばかりです。午後に受けたワークショップ"自主製作映画 グリーンストリート"については次のブログでご報告しようと思います。
それではまた!
ニューヨーク植物園にて
村山雄一