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東山道武蔵路「八国山遺構」

2012年2月 5日 /スクランブル

今を遡ること1300年前。
時代は奈良時代。
現在の東京はまだ住む人もない広大な野原だった。

 

そんな時代、武蔵野台地を南北に縦断する巨大な道路があった。
上野・下野から南下し、相模の国に至る直線道。幅は12メートル。

「東山道武蔵路」と呼ばれていた。


この道路は、平城京におかれた中央政府が、地方を統制するために作られ、中央の役人や軍隊が利用する官道であった。30キロ毎に道の駅が設置され、馬に乗った中央政府の役人が道を駆け抜けていた。

 

hatikoku-ikou.jpg

 ※写真は、八国山緑地。武蔵路が通っていたと言われていた場所。左赤線部分から右に12メートルほどの長さで、山が窪んでいる。 

 

 

この古道、新日本書紀などの古文書に記述はあるものの、実際の痕跡は見つかっていなかった。しかし、1989年、所沢市久米の「東の上遺跡」にて、全長100メートル、幅12メートルの遺構が発見された。続いて1995年、国分寺市においても全長340メートル、幅12メートルの遺構が発見された。東の上遺構から国分寺の遺構を直線で結んだ線上には、いくつかの遺構が見つかり、幻の巨大古道は、その姿を現代に蘇らせた。

 

その遺構の一つに「八国山遺構」がある。発掘調査では、道路の遺構としての明らかな証拠は見つからなかったが、側溝のような溝が確認され、また、須恵器が発見された事から、東山道武蔵路は、八国山を縦断していたと考えられている。

 

とすれば、東山道武蔵路が八国山を越える時、その頂上からは武蔵国分寺が見えたと言われている。当時、武蔵国分寺には七重の塔があり、その2階より上の部分が見えたと推測されている。

 

現在、八国山の上から武蔵国分寺は見えない。
国分寺方面である北側斜面には樹木が密生し、風景が見えなくなっている。
樹木をある程度、伐採し、展望を良くし、古代人が見ていた武蔵野国の風景を蘇らせたいものである。

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