1603年、徳川家康は江戸に幕府を開きました。
江戸は、その名の示す通り、「海が陸に入り込んだとば口」という意味で、湿地帯や遠浅の海が広がっていました。
当時の江戸は飲み水が不足していたそうです。井戸を掘っても出てくるのは塩っけの強い水や飲み水にならない悪水ばかり。
そこで江戸幕府は、江戸に安定した水を供給するために多摩川から水を引くことにしました。多摩川からの取水口は羽村市。そこから四谷までの43キロメートル。1653年、武蔵野台地を西から東へ走る人工の川「玉川上水」が完成しました。
玉川上水は江戸っ子の自慢でした。
「おう!てっやがんでぇー。こちとら玉川上水で産湯をつかっているおあ兄さんよっ!」なんて啖呵も聞かれたそうです。なんと言っても、日本にまだ水道がない時代のことです。上水の水を使えるのは江戸っ子くらいなものです。自慢するのも無理ありません。
江戸時代から玉川上水沿いにはサクラが植えられていました。
上の絵は、江戸時代に描かれた小金井橋(小金井市)です。
橋のたもとに植わっているサクラにはちょっと見えにくいですが大人が2人抱きついています。上水沿いの道は五日市街道です。上水沿いにはサクラが、五日市街道沿いには松が目立ちます。
下の絵は歌川広重が描いた玉川上水です。こちらは新宿付近の絵ですが、ここでもサクラがたくさん植わっています。
サクラの花びらは水を清めると考えられており、また、花見客が川べりを踏み固めてくれるので、サクラの植樹を推奨したそうです。
さて、時代が変わり、現在の玉川上水。だいぶ景観が変わってしまいました。ところどころサクラは残っていますが、現在はクヌギやコナラ、ケヤキなど、雑木林のような樹種になっています。
まあ、それはそれで武蔵野らしくて良いのですが、ちょいとばかり、木が大きくなりすぎて、危ない樹林帯になっています。現に9月21日の台風の際には、大木が倒れ、枝が折れ、たくさんの被害を出しました。
さあ、このまま放っておく訳にはいきません。玉川上水の流れ部分を管理している東京都水道局は、樹木の部分的な伐採に乗り出しました。アオキなどの常緑樹を伐採し、古木や危険な樹木を伐採しています。
さて、では、玉川上水緑道部分はどうするのか?
大きく立派な古木には威厳があり、神聖ささえ感じられます。しかし、住民の暮らしに危険を及ぼすようでは困ります。シンボリックな古木を残しながら、緑道の樹林帯の更新を図るにはどうしたら良いのか?
玉川上水が再び東京っ子の自慢となるように、玉川上水再生PJを起案したいと思います
玉川上水からは33の分水が武蔵野台地に水を供給して今日の繁栄を生み出しました。
小さい頃は、境村分水がそばを流れる小学校で学び、品川分水の取り入れ口のシナンボリで泳いでいました。
これらの分水のほとんどは埋め立てられてしまい、残念です。
ヨシダ | 2012年1月 1日 12:09