毎月第三日曜日におこなわれる狭山公園のKIDSプログラム。この日は矢口レンジャーの担当。
松の木の赤ちゃんを観察し、大きな松の下で松ぼっくりをひろい、いろいろ木の実や、ふわふわの草なんかを見つけて、小さなクリスマスツリーを作るというプログラム。
でも、途中で一人の男の子が、みんなについて来れなくなった。
ツリーのベースになる松ぼっくりが探せないのです。
スタッフの中学生が、ひろっておいた松ぼっくりをそっと近くに置いてみる。
その子が歩いてきて見つける。
でも気に入らない。
お母さんの手には、けっこう立派な松ぼっくりが一つあったので、僕は、お母さんが、その子より先に松ぼっくりをひろい、それでへそを曲げたのかとも思った。子どもの先をやってしまうお母さんはとても多いですから。
プログラムサポートに来てくれていた峰岸さんが付いて見守ることになりました。
峰岸さんは小さな子どものプログラムを長く続け、各地で成果を上げている方です。
4歳~5歳くらいで自我が目覚めて、小学校の低~中学年くらいまでは、何かにひっかかっても、それを上手く他人に説明できない。
ただ「違う!」、「いやだ!」というしかない。
それを分かってあげること。認めて、やりとげさせること。
それがこういうプログラムの隠れた醍醐味だと思います。
僕は写真を撮るために本隊へ戻り、峰岸さんにこの場は任せました。
プログラムの後半は、いよいよ拾った自然の素材でツリー作り。小さな手が、小さなクリスマスツリーに取り組みます。
あの子は?
みんなよりだいぶ遅れて戻ってきました。
峰岸さんに聞いたら、途中にいくつか松ぼっくりを隠したので、それを取りに行ったとのこと。
彼は無事に最後までやり遂げた。クリスマスツリーを作り上げたのです!
反省会で僕は峰岸さんに聞きました。
「あの子は何かにへそを曲げたのですか?それとも何かナチュラルな彼の気質が出たのですか?」
峰岸さんはすぐに僕の問いに応えました。「後者です。素晴らしい子です。」
・彼のお姉さんが大きな松ぼっくりを見つけた。彼はそれより大きなものを見つけたかった。
・途中から見つけた松ぼっくりはその場に隠し、大きな松ぼっくりを探しを続けた。
・いくつか松ぼっくりが隠されたあと、峰岸さんが「とりあえず色を塗りに行こうよ」と言ったら納得してプログラムへ戻った。
子どもは成長の過程でいろいろなことを獲得していきますが、相反する事柄として、「協調性」と「独自性」がある。
これをどう扱うかが、小さな子どものプログラムの大きなテーマだと思うのです。
当然に子どもの資質は様々ですから、「協調性」が先に成長する子もいれば、「独自性」が強く、できあがっていく子もいる。
このことをまず認め、(そこで双方に安心感が生まれる)両者を等しく扱うということが重要だと思うのです。
もちろん最後には両方を持った子を目指していく。他者を認められる子を作っていく。
今回のプログラムでは若い矢口レンジャーが、明るく溌剌と全体を引っ張った。
しかしついて来れない子が出た。矢口一人だったら脱落するしかなかったかもしれない。
しかしベテランのサポーターがバックについたことで、両方がプログラムを完結できた。
峰岸さんも「私が一人でトップを引いていたら、彼を置いていくしかなかった」と言っていました。
時間が長いプログラムだったら、リーダーに能力があれば両方やれる時もある。
しかし今回は、あらためて子どもの資質の多様性が明確に見え、それに対し何を用意し、どう対処するかが見えた。
4~8歳くらいのプログラムだったら、脱落する子が出て当然。サポートリーダーは安全確認だけでなく、そういう子のすくいあげのためにも、ベテランを配置するのは得策。
今回はできませんでしたが、本当はその子のやったことを、みんなに話せたらよかった。
「凄い子だね。いいのを作ったね。」と認めたあとで、「小さな松ぼっくりでも最後までやれば、自分だけのツリーになるんだから、最後はみんなと作れてよかったね。」と言ってもよかった。
少なくとも親は聞いて安心するし、他のお母さんにもそのことは分かってもらいたい。
結局僕たちは親ではないし、最後は親に託して分かれるしかない。
だから最後のメッセージは、親に対するものが半分入っていてもいいと思うのです。
さらには、できた松ぼっくりを全部ならべて、その美しさを言ってあげたかった。
子どもが作ったものを全部並べ、ひとつひとつを評価することは、他人を認めること、異質なものを認められることの、最善の教育法であり、まさに現代的な、多様性の時代の環境教育手法であると思います。ただしうわべの評価では子どもに見抜かれますから、やはり我々は細心の集中を持って、子どもを見つめなくてはいけません。しかる時は少し的を外して(個人に向かって、とどめを刺すようなのは厳禁)。褒めるなら的を得ていなくてはいけません。褒める方がずっと難しいのです。