昨日は、東村山市立「八国山たいけんの里」の職員「石川さん」に講師をお願いし、狭山丘陵や八国山の歴史を学びました。
狭山丘陵には、石器時代から人が住み着き、歴史を積み重ねてきました。
そんな人々の暮らしの痕跡にスポットを当て、狭山丘陵を見つめ直しました。
凄いですよ!狭山丘陵。
魅力満載です。
では、本日は、八国山を南北に貫いてきた巨大古道をご紹介します。
今を遡ること1300年ほど前。
多摩地域を南北に横断する巨大な道があったという。
その道路の名は、「東山道武蔵路」。道幅12メートル。道は、群馬・栃木県から東京都府中までほぼ直線に続いていた。
『続日本紀』宝亀2年(771年)に記述が残されており、また、その遺構は、国分寺市、小平市、東村山市、所沢市で確認されている。
この道にはいくつもの謎が残されている。
例えば道幅。
なぜ、飛鳥~奈良時代に12メートルもの幅が必要だったのだろうか?。
また、ルートも不確かな部分が残されている。
国分寺市で発見された大規模な遺構と、所沢市で発見された遺構を直線で結ぶと、道は八国山を横断していた事になる。
以前、八国山で行われた発掘調査では、遺構らしきものが発見されている。
しかし、八国山は丘陵地であり、低いとは言え、道は山を乗り越える事になる。近くには平坦な場所が広がっているのに、敢えて山を越える理由があるのだろうか。現に、鎌倉時代に通された鎌倉街道は、八国山を迂回して通されている。
本当に東山道武蔵路は、八国山を横断していたのだろうか?
さらなる発掘調査を期待する。
でも、仮に横断していたとすれば、八国山を越える時は、さぞ眺めが良かったことだろう。
見渡す限り平坦な武蔵野台地を、南北に貫く12メートル幅の直線道路。南を見れば、府中の大国魂神社が見通せ、北には川越や入間川が見通せ、さらにはぐるり関八州が見渡せたことだろう。
詳しくは下のホームページを参考にしてみて下さい。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/touzando1.html