ワールドカップ観戦の日々が終わりました。
ここ数週間は眠い日が多かったです。
今日、未明の決勝戦は、睡魔との闘いでした。重い瞼をこじ開けながら勝敗の行方を見守りました。しかし、決勝ゴールの瞬間は、どうやら眠っていたようで、昼のニュースで見る事になりました。ビデオに撮って見ればいいのだけど、「その瞬間を共有したい」という思いでライブ観戦をし、結局は昼のニュースで見たのだから、もうがっかりです。
エキサイティングな日々も終わってしまえば、はかないもので、また、4年間お預けです。
ワールドカップを見ていて気付いたのですが、朝が来るのがずいぶん早くなっています。前半が終わった3時半位で、空がうっすら明るくなっていました。そう言えば、今頃が一年で一番、夜が短い時期でした。
俳句の世界では、短い夜は「短夜(みじかよ)」といって、季語になっているそうです。短い夜にかけて「はかなさを惜しむ」という意味合いで俳句に詠み込まれています。
かの松尾芭蕉の俳句にも登場するので、結構、ポピュラーな季語のようです。
それにしても、「夜」を季語にするって面白いですよね。「ほととぎす」や「初ガツオ」、「エゴの花」など、生き物の季語は知っていたのですが、気象・天文学的な「夜」を対象にした季語は知りませんでした。
今でこそ、電気の明かりがあるので夜は主役になり得るのですが、江戸時代の夜は、人間にとって未開の領域だったはず?
いや、それは現代人の感覚であって、江戸時代の人間は、むしろ今よりも夜を鋭く捉えていたのかも知れません。
話は多少ズレますが、井上陽水の曲に「はじまり」というタイトルの曲があり、その曲は、夜を主役にした曲でした。
という事は、今日、見ていた夕暮れの風景は、一日の終わりの風景でもあり、夜のはじまりの風景でもあったわけか?
「夜」を捉える視点が変わりました。
なんて、取りとめもない事を考えているうちに、はかなく短夜は更けていくのでした。
さらばワールドカップ、さらば南アフリカ。